「おはなし」の力

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 小学生だった私の密かな娯楽は、トランジスタラジオを寝床に持ち込み、片耳イヤホンでNHK第一放送の番組を聴くことだった。日曜日にTV放映される『ポパイ』が午後8時に終わると、否応なく寝床に入ることが当家の掟だったが、オリーブの甲高い声を散々聞かされた後にすぐ寝つけるはずもなく、「文芸劇場」という45分間のラジオドラマを聴いた。裏窓から見える男女の物語や、幾重にも紡ぎ出される人生の不条理に耳をそばだてて、ますます目は冴え、放送終了を知らせる午前0時の『君が代』が流れるのを何度聴いたことだろう。とりわけ心奪われたのは、泉鏡花が28歳の時に書いた小説『高野聖』(1900年)を脚色したドラマであった。その中心は、若狭へ帰省する「私」が車中で偶然知り合い、同宿することになった高野山の旅僧から聴かされる飛騨山中の怪異体験である。

 大蛇に怯えながら、皮膚に食い込みおびただしい血を吸う巨大な山蛭の降る森を抜け、旅僧がたどり着いた一軒家には美しい女が住んでいた。女はせせらぎで体を清めることを勧め、僧の世話をするうちに、いつのまにかその背後で一糸まとわぬ姿になり、僧を陶酔の時間に誘う。しかし女は男性の精力を奪い、挙げ句の果てに人ならぬ者に化身させる魔性を宿していた。僧は危機を脱し、翌朝その家を離れるが、花弁に包み込まれるような狂おしい感覚が忘れがたく、戻ろうとする。しかし、女の秘密を聴き、ようやく正気に返るのである。この話は、鏡花が幼時に聴かされた口碑が下敷きになっていると考えられる。

 一夜の宿を求めた旅人を親切にもてなし、食い殺してしまう山姥などの伝承は、日本の各地に豊かなバリエーションを伴って分布している。鏡花が、山姥の代わりに妖艶な女性の形象を選んだのは、自身の内的体験を反映しているようにみえる。鏡花は10歳で死別した母に生涯強い思慕の念を持っていたという。母性への憧憬は、束縛の憂鬱と背中合わせでもある。実は、女は僧と出会ってすぐ、自分の執拗な要求に決して応えないように予告している。禁忌が提示され、試された者が、それを犯す話は、『古事記』のイザナミとイザナキの逸話を想起させる。イザナキが禁忌を犯した時、追慕していたイザナミはたちまち変貌を遂げる。その肉体は、醜く腐敗して、自分を襲う魔へ反転する。破られることが前提の禁忌の提示は、多くの口碑に見られる類型であり、禁忌は誘惑でもある。伏線となって、享受者に持続的な興味を与える有効な手段でもある。私が、『高野聖』に魅了されたのは、この世のものならぬ怪異と禁忌によって色濃く縁取られた官能的体験にほかならない。私は、甘美でしかも恐ろしい聴覚だけの世界へ「おはなし」の力で引き込まれ、その虜となったのである。河合隼雄は、「もともと極めて両面的な性格をもっている母のイメージを、もっとも明確に割り切ってみせたのがキリスト教の文化であろう。」と述べている。西洋の中世においては、その二面性は、聖母と魔女に引き裂かれていると指摘している。 1 日本の口碑に多く描かれる母性は、両面をあわせもっている。僧は、女の正体を知り、禁忌を守ることで、束縛から免れ、怪異を他者に語る資格を得る。『高野聖』に連なる「おはなし」の系譜は、日本文化の本質を暗示している。多様な価値観がモザイク状になっている人の世を生きる知恵をそこから読み取ることも可能である。

多くの留学生が集う本学において、「紙芝居プロジェクト」が、日本とそれぞれ母国の固有の文化について考える機会になったのであれば幸いである。(了)

河合隼雄『おはなしの知恵』朝日文庫 2014 186頁

入江成治(元・京都精華大学、地名学、国語教育)

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